

只今、準備中です。
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焼失前は桟瓦葺きでしたが、地震に対して少しでも有利な銅板葺きに変更し、背面の屋根の形状を、谷をなくし雨漏りが起きにくくする形状に変更するなどご要望や変更点をふまえて設計をはじめました。
実際に設計するにあたり様式は、胡録神社の木割りや彫刻の文様から参考にしてあると思われる「匠明」(*)を含め、古式にはこだわらず、独自に木割りや設計をしました。独自といっても、私が鵤工舎(*)で学んだ事項がもちろん基になっておりますが、鵤工舎には決まった木割りなどがないので、この建物独自に木割りや設計をしました。彫刻の文様などは新たに創作しました。
(これには伝統建築を守るだけでなく、親方や先人を乗りこす工夫が必要だという西岡棟梁の教えが根底にあります。)
消失前の社殿や胡録神社、そして「匠明」の木割りよりかは太くなっているので、実際の安定感だけでなく、見た目の安心感にもつながると思います。
全体としては地震に対して少しでも有利なように柱をやや短めにし、建物の高さをわずかですが低めに抑えました。
外観については、屋根は建物自体が飛翔するように見えるような曲線を描きました。「匠明」のような威張ったような外観ではなく、屋根の妻や棟を少し小さめにして、穏やかで、やさしく優雅で、貴賓あふれるような外観を目指しました。そしてその軒先の曲線が数百年後も下がらない様に、銅板葺きで1軒ですが桔木を入れてあります。彫刻の文様や絵柄はすべて原寸図を書きおこし、1厘以下の単位にまでこだわりデザインしました。
図面を書いている時に頭から離れない事の1つに、最初に伺った『放火による再建だ』という事がありました。
設計する者なりになにか再発を防止出来ないか、という事を考えました。
もしまた放火してやろうというやつが来た時に、この建物を見て『この神社は何か立派だな』とか、『何か彫刻がおもしろいな』とか、『何か屋根がきれいだな』とか、『なにか』を感じてくれて、結果的に『やめるか』と思わせる事が出来れば言う事ないなと思いながらデザインしました。
さらには、人が見たら思わず手を合わせたくなる様な、そんな建物を目指しました。
奉賛会の方々や地元の氏子様から全額ご寄付で集められた大切なご予算と、限られた工期の中で、やりくりしながらも、この現場で出来うる事はすべて全うしました。
御用材は、主要構造材の柱、桁、虹梁、地覆は吉野檜とし、小屋裏の梁などは尾鷲檜、その他は米ヒバとしました。
この神社は沢山の職人さんが、沢山の手間をかけて、一生懸命に作って頂いたので末永く建ち続けるだろうと思っております。
奉賛会や氏子様をはじめ地域の皆様に、ずっとご愛好頂ければ幸いです。
所在地 | 千葉県市川市新田 |
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建築物の用途 | 神社 社殿 |
構造及び規模 | 木造 平屋建 延16m² |
内容 | 設計+監理 |
撮影 | photomo/工藤朋子 pho-tomo.petit.cc |
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*匠明(しょうめい)
江戸時代が始まってすぐの慶長13年(1608年)に平内政信(へいのうちまさのぶ)によって書かれた秘伝の木割り書で、まとまったものとしては日本最古のもの。
社記集・堂記集・塔記集・門記集・殿記集の5巻で構成され、図面や部材寸法を含む。
また同15年に平内吉政の奥書もある。
平内家は豊臣家から徳川家にわたり作事方として仕え、政信は以後、幕府の大棟梁を勤めた。
なお「木割」とは建物の規模に応じて、全ての部材寸法や位置などを相関的比例関係で算定する。
良い意味でも悪い意味でも画一的に建築する事が出来る。
*鵤工舎(いかるがこうしゃ)
法隆寺・薬師寺棟梁の故・西岡常一棟梁のただ一人の内弟子の小川三夫棟梁が独立する際に西岡棟梁と相い図って創設した寺社建築専門の設計施工の会社
只今、準備中です。
工事種別 | 改修工事 木製扉部分+取付金具等新装 (既存石柱部分はクリーニング) |
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所在地 | 東京都台東区 |
設計監理 | (有)田村建築設計事務所/田村 恭意 |
施工 | 木工事:(有)寺尾工舎/大野 工樹 金属工事:(株)よし与工房/松岡 貞史 塗装工事:(株)住吉塗装工芸/住吉 英二 板金工事:(有)望月板金 材木:池田木材(株)/池田 聡寿 |
撮影 | photomo/工藤朋子 pho-tomo.petit.cc ※2枚目/改修後正面、3枚目/金具アップのみ。その他は田村恭意撮影 |
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今回の改修工事は、瓦の老朽化による葺き替え、それに伴い小屋組みの補強も行なった。
小屋組みの既存の材料は転用材も含めてだが健全な材が多いので、あきらかに腐っているもの以外はそのまま残し、新しい材料を加える形にした。
御用材は野垂木・野地板を吉野杉、それ以外の構造材などは全て吉野檜とし、野地板の留め付けには釘打機は用いず、従来通り手で打つ事とした。
また、瓦の下葺き(土居葺き)はいわゆる『トントン葺き』(*)とし、施主の依頼によりアスファルトなどの化成品は採用せず、自然素材で通気性に優れる杉板のトントン葺きとした。 杉板を事前に機械編みされたシート状の既製品もあるが、旧来通り一枚一枚を鉄釘で打ち付ける事としたが、都内にはそれを出来る職人さんが1人しか残っておらず、もう1人千葉から応援に来てもらい施工することが出来た。
釘打機を不可としたのは、手で解体をした事がある大工さんから聞いた話しによると、釘を機械で一度に打ち込んだ部位はするすると抜けてしまうが、大工さんが手で何回かかけて、しかも向きを不規則に打ち込んだ所は解体しにくかったという事から、より頑丈と思われる手打ちを採用した。
これには「塔」の建築の考え方に建物全体として力を合わせて考える『総持ち』という概念があり、その考え方から少しでも全体として強くなるように手打ちを採用した。
また、これら伝統工法を採用したのは、新しい素材や工法はメーカー保証期間や劣化試験の数値が判断基準になるが、伝統工法で建てられたものは手を加えながらとはいえ、最古のもので千三百年以上も目に見えて現存し続けており、これ以上ない長期保証書としてとらえ、更にこの考えを施主の方々にも賛同して頂けたので伝統工法を採用するにいたった。
瓦は、塩害や酸性雨などにも有効な高温で焼いた瓦とした。 高温で長時間焼成すると炭素が中まで入りこみ、吸水率が低くなり、結果として割れにくくなる。 今回は1100℃以上で高温焼成し、吸水率4.2%とした。
屋根工事以外には内部改修工事として、施主の依頼により内陣の格天井に新たに切金砂子などで絵画を施した。 下地の板が乾燥収縮しないよう既存の板を再利用する事とし、しかしそれだけは薄いので、新しい板を裏面に貼り増した。その新しい板は極力、乾燥収縮しないようにするために、(化粧部分でないにもかかわらず)尾州檜の柾目の無地の板を貼り増した。
砂子を撒く紙は砂子師、経師、和紙屋そして施主と協議の上、砂子を施すのに最適な手漉きの鳥の子、つまり『本鳥の子』を使用する計画を立てたが、機械漉き、つまり『鳥の子』などの和紙しか見つからず、和紙屋さんに方々探してもらった所、ある製造所に少しだけ『本鳥の子』が残っているのを見つけてもらい、なんとか調達する事が出来た。
『トントン葺き』や『本鳥の子』など伝統技術が途絶えていくのを目の当たりにした現場だった。
名称 | 某寺 御本堂 |
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工事種別 | 改修工事 瓦葺き替え+小屋組み補強改修工事など |
構造 | 木造 寄棟造 向拝付 本瓦葺 |
階数 | 平屋建て |
設計監理 | (有)田村建築設計事務所/田村 恭意 分離発注方式 |
主な施工業者 | (有)寺尾工舎/大野 工樹 (有)戸田瓦工業 (有)望月板金 |
和紙 | 東京松屋 |
撮影 | photomo/工藤朋子 pho-tomo.petit.cc ※1〜4枚目の竣工以前の写真は田村恭意撮影 |
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*トントン葺き
厚さ1mm程度の薄い杉又はさわらの板を竹釘や鉄釘で打ち付ける。数十本(20〜50本)の釘を口に含み、手では釘を打ちながら、舌で次の釘を唇から1本だけ出して準備しておく。特に鉄釘の場合は舌で一瞬のうちに向きを揃えて釘頭を1本出しておく。それら一連の作業がリズミカルに繰り返される。その際、テンポ良く「トントン」という音が響く事から、トントン葺きと言われている。柿(こけら)葺き・木羽板(こばいた)葺きともいう。なお、口に含む釘は亜鉛メッキや油分の付いたものは用いない。
《工事に先立ち施主や役員会の皆様と施工される方々に配布した工事概念》
工事概念 - 1
お施主様+役員会の皆様+工事関係者各位
このお寺のご本堂は慶長(西暦1600年頃)に創建され、天明の大火で焼失後、寛政(西暦1800年頃)に現在の建物が再建され、その後何度か改修を重ね、明治になり土壁造りとし、そのため戦災からも焼け残る事ができました。
今回の改修にあたり事前に床下や小屋裏に入り調査をさせて頂きました。そこで見たものは、予想以上の太い用材でした。どれも不揃いでした。また、よく見ると中にはホゾ穴が開いていたり、溝が彫ってあったり、以前に別の場所で使われていたと思われる、転用材が多く見られました。まだまだ元気な材でした。それは、現代の様に「ただ木で作る」のではなく、樹と格闘し、対話しながら『樹を組んで創る』と言う事がなされていました。それらの材は現在とくらべ、創建当初や改修時のいずれにしても物が沢山ある時代の物ではないと思われます。転用材を含め、不揃いでも大きくて良い材料なのはどういう事なのか?それは『仏様のお住まい』の為に少しでも長持ちさせようと言う当時の方々の「一生懸命」そして語源の通り、『一所懸命』な気持ちのあらわれだと感じました。
私は昔の方々に負けないよう、又何十年後、何百年後に笑われないよう、少しでも長持ちさせるようにしたいと思っております。不況とはいえ物があふれている今日、この工事に携わる全ての方々に、当時の人々の気持ちを少しでも想像し、感じて頂ければと思いこの文章を書かせて頂きました。そしてこの工事に携わる皆様に『少しでも長持ちさせよう』と御理解、御協力いただければ幸いです。
《さらに施主や役員会の皆様のみに配布した工事概念》
工事概念 - 2:瓦
お施主様+役員会の皆様
調査の結果、今回母屋と向拝の両方の瓦を葺替えなくてはなりません。瓦屋さんの話では、母屋はいつの時代の物か分からないくらい古い物だそうです。向拝の瓦は、数十年前の物らしいですが葺替えなくてはなりません。おそらく、母屋の瓦は旧来の製法でゆっくりと丁寧に作られ、向拝の瓦は機械的にただの製品として作られたモノだと思われます。古式にくらべ、機械化された近・現代の方がモノが良くないという事です。
現況の瓦は痛んでいたり、ずれていたり、なかには割れている物もあります。瓦はずれると、そこから雨水が逆流してしまう事があります。割れていれば、当然雨漏りしてしまいます。瓦が割れてしまう理由の1つに、何らかの物が上空から落ちてきて直接割ってしまう。こちらは避けられません。
もう1つ理由があります。雨や雪が降ると、瓦自体が少しですが吸水してしまいます。その水分が晴れて蒸発すればよいのですが、蒸発できず瓦の中にたまったまま気温が下るとします。水は凍るとその体積が約1.1倍に大きくなります。すると瓦がその膨張についていけず、割れてしまいます。そこで、吸水率の低い瓦を使う事で割れを防ぎます。それには、別紙にありますように、瓦を高温で焼き締めます。一般は約950℃ですが、少なくとも1100℃またはそれ以上で焼成します。高温で長時間焼成すると、炭素が中まで入りこみ、吸水率は低くなります。一般は20%ですが、今回は最低12%以下、出来れば5%以下を目指します。文化財などの建造物だと5〜7%、なかには3%という所もあります。
瓦は分かっている範囲でもおよそ1400年前からずっと使われている材料です。昨今、異常気象といわれ、中でも酸性雨という問題もあります。高温焼成した瓦は塩害を含めた酸性雨などにも有効な事が認められています。工事概念-1に書かせて頂きましたように、私はこのご本堂を少しでも長持ちさせたいと思っております。今回、せっかく葺き直されるので、少しでも良いもので、少しでも長持ちさせたいと思い、上記のような瓦を御提案させて頂きます。

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斜めや三角形など特殊な部分があり、寺社建築の銅板屋根を専門に葺く業者に施工を依頼した。住居部分は施主の希望でアジアンテイスト(インド風)に仕上げている。
所在地 | 東京都世田谷区 |
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構造 | 鉄骨造 |
規模 | 地上5階建 |
延べ面積 | 延245.60m² |
用途 | 住居+テナント |
主な外部仕上 | 銅板 一文字葺き 押出成型セメント板 |
基本設計 | 島田建築事務所 |
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実施設計協力 | 田村建築設計事務所 |
撮影 | 田村恭意 |
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建具の欄間部分がないので開けた時はより開放的に、閉じた時は外部や他の気配を感じられる位に『あいまい』に間仕切る事が出来る。別のプランでは台所と収納の間仕切りが連続して一体になっており、来客時には台所を隠す事も出来る。台所は下部の収納や扉がなくOPENになっており自由に設定して使用できる。ベランダの手摺りのパネルは可動式となっており通風を助長する。居室とベランダの床とをほぼフラットにし、内と外を『あいまい』に繋いでいる。
所在地 | 横浜市青葉区 |
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構造 | 鉄筋コンクリート造 |
規模 | 地下1階+地上4階建 |
延べ面積 | 634.81m² |
用途 | 集合住宅+店舗 |
基本設計 | 島田建築事務所 |
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実施設計協力 | 田村建築設計事務所 |
撮影 | 田村恭意 |
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制作者のことば(設計主旨)
武蔵野美術大学造形学部建築学科
田村 恭意
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』で以下のように述べている。
文明の利器を取り入れるのに勿論異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少し我々の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか。
我々は、建築文化において千数百年に及ぶ歴史と日本の風土の中で木造建築の技術を培ってきた。 飛鳥時代より仏教と共に大陸より伝来してきたこの技術は、長き年月を経て工匠達により受け継がれ、 改良が施され、熟成されてきた。
しかし我々は、明治以降の文明開化の中で、谷崎潤一郎の言うように急速な西洋文明の導入の為、過去の文化を切り捨てる事を厭わない癖を身に付けてしまった。そして戦後の経済効率優先という開発手法の中で西洋から取り入れた建築技術のみに目を向け、伝統の木造建築文化を見捨て、歪んだ発展を推し進めてしまった。更に今我々の時代は、その高度な世界に誇れる文化を自らの手で消滅させようとしている。
これからの建築文化を創造するにあたって、今一度この歴史だけが育て得る伝統の文化を見つめ直し継承することで、西洋から学んだ技術と共に後の時代への発展と融合を導くことが必要であろうと考える。
この日本の木造建築の文化を維持する為に、千三百年前から継承され高度な技術を支え続けてきた法隆寺の番匠(宮大工)という伝統の文化をとりあげ、特に昭和の名工と言われた西岡常一棟梁の記念館と研修舘を計画する。
推薦のことば
武蔵野美術大学造形学部建築学科教授
竹山 実
「今後特に日本の建築家は何を作って行くのだろうか。地球規模、宇宙規模といった名目で、世界様式、宇宙様式といったものを、科学や数学や理屈を重ねてつくっていくのだろうか。それともルネサンスのように回帰する時があるのだろうか…」こうしたごくナイーブな自問自答のすえ、同君は伝統文化の再評価とその継承といったことに関心を抱いた.そのあげく木造建築の伝統技法に興味を集中させ、はなはだ行動的に学習を重ねたようだ。その成果を奈良の斑鳩の里に想定した「西岡常一棟梁の記念館と研修館」と名づけられたこの作品にまとめ上げた。西岡棟梁の弟子にあたる小川三夫氏にも木のこころを学んだという。
木と木造建築に寄せる田村君のこうした関心は、決して趣味的なレベルでの問題ではない。あるいは文化の差異を消滅させる文明の勢いに対する防衛、というよりは、むしろ文化の相対主義の意識と姿勢に裏付けきれた積極性をもっていると思う。古いテーマを扱いながらはなはだ新鮮に響いたのは、そのせいであろう。事実、空間構成や形態処理には、荒削りながら、新しい志向性が十分読み取れる。
いささかでも木のこころを表現に取り入れようと、作品は木製のパネルに直接描き上げられた。ますます複写技術やCGといったエレクトロアートが横行する今日、この作品の表現手法は意外と新鮮な表現性を印象づけた。
この作品に忍ばせた以上のような問題意識とその表現性が特に評価された。同君の資質が今後実践の世界でどこまで勢いを保ち続けることができるのだろうか。少しの不安を交えながらも大きな期待が膨らむ。
竹山ゼミ発表文
(大学4年前期の『竹山ゼミ』における発表文。まったく自由に設定・作文してよく、その時に思い感じている事を書き綴った。紆余曲折の末、卒業制作の主旨につながった。)
私は旅行に行った時、特に国外に行った時、その土地々々の料理を食べたり文化を見たいと思っている。日本に国賓が来た時、天皇や首相は和服や和食の時もあったが、洋服を着てフランス料理で彼らをもてなすのをテレビで見たことがあった。もし自分が日本人でなく日本に来たらどう思うだろう。そんな事から母国の、日本の文化を考える事があった。
谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』で、小説家の空想で愚痴と断わった上で、もし東洋に西洋とは全然別個の、独自の科学や文明が発達していたならば、どんなに我々の社会の有様が今日とは違ったものになっていたであろうか。西洋の方は順当な方向をたどって今日に到達したのであり、我々の方は優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに過去数千年来発展しきった進路とは違った方向へ歩み出す様になった。そこからいろいろな故障や不便が起こっている。(例えば万年筆・紙・フィルム・ラジオ・照明・暖房・便器など)文明の利器を取入れるのに勿論異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少し我々の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか、と述べている。
法隆寺・薬師寺の宮大工 西岡常一棟梁は『木に学べ』で、法隆寺創建当時の事について千三百年前の飛鳥時代の頃に仏教と共に伽藍造営の新しい技術が大陸から入ってきた。ところが中国には軒の深い建物はひとつもなかった。現在中国で残っている建物で一番古いのは山西省鷹県に彿宮寺という六百年前の八角五重塔があるが、その建物の直径は29mあるが軒先は2m50cmしか出ていないが、同じ八角形の法隆寺の夢殿は直径11mしかないが軒先は3mも出ている。これは大陸は雨が少ないという事だが、飛鳥の工人はその大陸の雨の少ない建築を学んだが、それを鵜呑みにせず 雨が多く湿気も多いという日本の風土に合わせて軒の出を深くしたり基壇を高くするなど新しい工法に、徐々にではなく一遍で直している。これを文化というのではないかと述べている。
最近のラーメンブームで構浜にラーメン博物館というものができた。そこに九州のあるラーメン屋が支店を出す事になった。その支店長には九州の本店で修業していた人が努める事になった。その新支店長は東京進出にあたり、店長に自分で造ったラーメンを試食してもらいアドバイスをもらった、「もっと東京風にしてみれば」と。しかし、新支店長は「このまま勝負します」と言った。東京風にアレンジする事は、完成された物をくずすという事でとても勇気のいる事だが、この場合は自分達が造ってきた物を本物と信じて勝負した。両方メニューにすればよいと思うが、これも一つの文化だと思う。食文化では家庭単位でも知恵や工夫がほどこされていると思う。例えばだしの取り方、漬物の漬け方、味噌汁の味付けなどその家々で工夫がされていると思う。
谷崎潤一郎が述べた事を飛鳥の工人達はやり遂げていた。九州のラーメン屋は改良せず本物を造る事にこだわった。食文化はプロから家庭までいろいろな知恵や工夫がほどこされていると思う。しかし、建築は特に文明開化以降、西洋建築が導入されたが明治以降の大工(あるいは建築家)は 知識は増やしたがそういった知恵はほとんどほどこされていない様に思われる。もっと工夫すべきだったんではないだろうか。
明治以来、西洋の文物や学問が取入れられそれをマスターした人が偉いとされ、教育方針も個性を伸ばそうとはせず、生徒全員を同じものとして枠にはめ、知識だけを詰め込み、その記憶力をテス
トし、それで優劣をつけた。いつしか我々は宗教の代わりに学問(あるいは科学や科学的根拠)しか信じられなくなってしまった。建築でも鉄やコンクリの様に公式が成り立ち学問として成立すれは信用される。しかし木材になると学問が材料に及ばないので大工任せになっている。鉄はせいぜい二百年しか持たないが、法隆寺の檜は寺として千三百五十年建ち続けている。この事実は西洋の学問にはなかなか信用されな
い。
近代建築の鉄骨造の柔構造と法隆寺五重塔などの木造の柔構造は、様式は同じでもコンセプトが全然異なっていて鉄骨造は数学が、木造は木そのもの、つまり生え方がコンセプトになっている。建築は時代の意志とわりきればよいのだろうか。
西岡棟梁の弟子の小川三夫棟梁は『木のいのち 木のこころ』で、法隆寺を建てた時、付近の檜は使い尽くしたが、その時代に遠くの木はないのと同じで近くの曲がった檜を使うしかなかった。いい木がないから、いいものを造らなくてもいいという事はない。事実、飛鳥の工人達はどんな木 でも千三百年持つ建造物を造ってきた。今むしろ、近くの曲がった木どころか、木そのものがない時こそ、知恵を使って工夫しなくてはならない。しかし、機械が発達して月に行ける様になっても飛鳥の工人の技法には追いつかない。むしろ機械に頼れは頼るほど技はおいてきぼりになると述べている。
これからは木材が減少し、木造建築も減っていくのは事実だろう。だが今後、特に日本の建築家は何を創っていくのだろう。地球規模・宇宙規模という名目で世界様式・宇宙様式といった物を、科学や数学や理屈を積み重ねて作っていくのだろうか。それともルネッサンスの様に回帰する時があるのだろうか。もしその時はどこに戻るのか、明治以降なのかそれとも明治以前に戻り日本の風土を考えた物を創るのか。
私は、今後知識がもっと増え、技術がもっと発達すれば、自然や風土を取り戻す事が出来ると思う。又、そのために知識と知恵、技術と技法を使うべきだと思う。
みなさんは、これから何を創っていくのですか。
平成6年(1994年)6月24日

一級建築士事務所登録 東京都知事 第23751号 |
有限会社 田村建築設計事務所 | |
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設立 | 昭和58年(1983年)12月 |
営業種目 | 寺社建築(設計・監理) 一般建築(設計・監理) 造園(設計・施工監理) |
所在地 | 〒160-0023 東京都新宿区西新宿3-18-6-101[地図はこちら(PDF)] |
電話 | 03-3377-8984 |
FAX | 03-3377-8904 |
mail@tam-des.com |
会長(一級建築士 第791302号 昭和55年3月25日 登録) |
♦経歴 | ||
大正15年4月11日生 | ||
昭和25年 3月〜27年12月 | 吉田五十八研究室 | 設計(歌舞伎座他) |
昭和28年 5月〜33年10月 | 鈴木工務店 | 全般 |
昭和34年 2月〜35年12月 | 星和建設工業(株) | 設計 |
昭和36年 1月〜58年 6月 | 佐藤工業(株) | 建築部技術課 |
昭和58年 9月〜58年12月 | 田村建築設計事務所 | 設立 |
昭和58年12月 | 有限会社 田村建築設計事務所 | 設立 代表取締役就任 |
平成22年11月 | 〃 | 会長就任 |
♦資格登録 | ||
昭和47年2月29日 | 一級建築士 第75384号 | |
昭和55年3月25日 | 一級造園施工管理技士 第7913020号 |
♦著書 | ||
「建築施工図 作成の手順と技法」(共著) 彰国社刊 |
♦佐藤工業(いずれも工事実施図作成) | ||
昭和36〜37年 | 桜橋ポンプ所 | |
昭和38年 | 覆馬場オリンピック工事 | |
昭和38〜39年 | 外苑会館 | |
昭和40年 | 府中市民会館 | |
昭和41年 | 府中図書館及び郷土館 | |
昭和42年 | (設計)風林会館、早川邸 | |
昭和42〜43年 | 横浜船員保険病院 | |
昭和44年 | 国立公文書館庁舎 | |
昭和44〜45年 | 神田郵便局庁舎 | |
昭和46年 | 新宿科学博物館庁舎 | |
昭和46〜47年 | 大東京ビル | |
昭和48年 | 第25興和ビル | |
昭和48〜49年 | 参議院事務局庁舎 | |
昭和49年 | 地下鉄 飯田橋駅 | |
昭和49〜51年 | 成城郵便局庁舎 | |
昭和50年 | 清瀬気象庁庁舎 | |
昭和51〜52年 | 国立婦人教育会館 | |
昭和52年 | 太田ショッピングセンター | |
昭和52〜53年 | 国立東京第2病院 | |
昭和53〜54年 | オリンピア早稲田ビル | |
昭和54年 | 地下鉄 神保町駅 | |
昭和55年 | 警視庁第9機動隊庁舎 | |
昭和55年 | 東北新幹線大宮駅 | |
昭和57〜58年 | 目白学園 |
♦田村建築設計事務所(いずれも工事実施図作成) | ||
昭和58〜61年 | 新宿グリーンタワービル | |
昭和61年 | 目白学園 増築工事 | |
昭和62年 | 中央区立 佃島 小・中学校 | |
昭和62年 | コパービル(共同住宅) | |
昭和63年〜平成1年 | 東京都 目黒清掃工場 | |
平成1〜3年 | 天王洲 MIビル | |
平成3〜5年 | アス西早稲田 | |
平成5〜6年 | お台場 タイム24ビル | |
平成6〜7年 | 東京都江戸川清掃工場 | |
平成7年 | お台場 タイム24ビル | |
平成8年 | 学習院初等科体育館プール | |
平成8〜11年 | 西新宿6丁目 第2三井ビル |
代表取締役(一級建築士 第288306号 平成12年1月20日 登録) |
♦経歴 | |
昭和44年11月20日生 | |
昭和51年4月〜57年3月 | 新宿区立淀橋第六小学校 |
昭和57年4月〜60年3月 | 芝浦工業大学付属中学校 |
昭和60年4月〜63年3月 | 芝浦工業大学付属高等学校 |
昭和63年4月〜平成3年3月 | 代々木ゼミナール造形学校 |
平成3年4月〜7年3月 | 武蔵野美術大学 造形学部 建築学科(卒業制作 金賞受賞) |
平成7年4月〜10年4月 | 株式会社 鵤工舎(住み込み修行) →現在 営業+設計 兼務 |
平成10年12月 | 有限会社 田村建築設計事務所 入社(設計) |
平成17年〜19年 | 株式会社 総合資格学院 一級建築士試験:設計製図 講師 |
平成22年11月 | 有限会社 田村建築設計事務所 代表取締役就任 |
♦鵤工舎(住み込み修行時代の主な職歴 現在、営業兼務) | |||
平成7年 | 茨城県 | S寺本堂 | 新築工事 工事補助 |
兵庫県 | T邸 | 震災修復工事 工事補助 | |
兵庫県 | K邸 | 震災修復工事 工事補助 | |
福井県 | H寺本堂 | 改修工事 工事補助 | |
奈良県 | S寺本堂 | 設計 | |
奈良県 | R寺本堂 | 設計 | |
平成8年 | 栃木県 | M寺本堂 | 設計 |
栃木県 | J寺手水屋 | 設計 | |
茨城県 | J寺山門 | 設計 | |
栃木県 | G不動堂 | 基本設計 | |
茨城県 | S寺山門 | 設計 | |
栃木県 | M寺本堂 | 基本計画 | |
奈良県 | A寺山門 | 改修工事 工事補助 | |
群馬県 | D院本堂 | 基本計画 | |
茨城県 | S寺宮殿 | 基本計画 | |
栃木県 | J寺鐘楼堂 | 基本計画 | |
奈良県 | 法隆寺 i センター | 複製原寸柱 設計+工事補助 | |
栃木県 | M院座禅堂 | 基本計画 | |
平成9年 | 奈良県 | R寺本堂 | 新築工事 工事補助 |
栃木県 | Z寺山門 | 設計 | |
茨城県 | T院山門 | 基本計画 | |
茨城県 | H寺本堂 | 設計 | |
埼玉県 | T寺位牌堂 | 設計 | |
栃木県 | S寺位牌堂 | 基本計画 | |
平成10年 | 奈良県 | S寺本堂 | 新築工事 工事補助 |
埼玉県 | T寺本堂 | 基本計画 | |
兵庫県 | R院本堂 | 基本計画 | |
奈良県 | S寺本堂 | 基本計画 |
*鵤工舎(いかるがこうしゃ)
法隆寺・薬師寺棟梁の故・西岡常一棟梁のただ一人の内弟子の小川三夫棟梁が独立する際に西岡棟梁と相い図って創設した寺社建築専門の設計施工の会社

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新宿京王プラザホテル35周年記念特別企画として京王プラザホテルにまつわる思い出やエピソード、ホテルとの関わりなどの作品募集(800字)
『同級生』 田村 恭意
私は昭和44年に西新宿3丁目で産まれました。勿論記憶にはありませんが1・2歳の頃母がよく新宿中央公園に日向ぼっこをしに連れていってくれました。ぼくの背後には再開発の一番目として京王プラザホテルがにょきにょきとその姿を表し始めていました。母は その建物を背後に『日向ぼっこ』のシャッターをきりました。
小学生になると中央公園や熊野神社で鬼ごっこをしたり、今では都庁が建っている空地で野球をしました。友達と練習したり『わかば』というチームで試合をしました。その頃には7・8番目の超高層ビルが建ち始めていて、休憩の時に水道栓に口をつっこみながら『京プラ』を一番始めに、建った順番に高層ビルをかぞえていました。
大学生の4年間を通してアルバイトしていた設計事務所は京プラのとなりの高層ビルにありました。その事務所の過去の作品写真集に『KPH』という名の竣工写真があり、見ると『京プラ』でした。この辺りから、今まで以上に『京プラ』に愛着を感じるようになりました。
29歳の時に結婚する事を決めました。結婚式の式場を選ぶときに一番最初に浮かんだのは昔鬼ごっこをした熊野神社でした。又、披露宴の会場は、ほぼ同い年の『京プラ』でやりたいと思い、まずは熊野神社に聞きに行くと『その日は外で結婚式を行うのでダメだ』と言われましたが、どこでやられるか聞いてみるとなんと『京プラ』でした。そこで京プラに聞いてみると一旦はその日は埋まっていると言われましたが『一枠だけ地元などの特別な方のために空けてある』と言われました。もちろん即決で予約しました。そして晴天に恵まれた1998年11月3日に熊野神社の宮司さんによる結婚式と披露宴を『京プラ』で挙げる事が出来ました。サービスやお料理、そして眺めも最高だったのを昨日のように記憶しております。
今は両親と家内と3歳の長男と5人で中央公園で遊びながら『同級生』の変わらぬ姿を眺めています。
平成18年8月30日

寺社建築 一般建築 造園 施工請負
